泊まれる出版社「真鶴出版」

―あいまいな不安から、かたちのある不安へ。めぐりあわせの中で営むこと。
川口瞬さん 來住(きし)友美さん 真鶴出版2号店にて

真鶴出版の川口さん(右)と來住さん(左)。二人は夫婦でこのゲストハウスを運営している。
photo: Miki Chishaki

箱根と湯河原という観光地に挟まれた港町、真鶴。神奈川県で唯一の過疎地域に指定されたこの町で、泊まれる出版社というコンセプトで、出版活動をしながらゲストハウスを営んでいる夫婦がいます。今回は「真鶴出版」の川口さんと來住さんにお話をうかがいました。

泊まれる出版社「真鶴出版」のはじまり

とても目を引くこのフレーズ。しかし、当初は出版とゲストハウスを一緒におこなう予定はなかったそう。
來住さんは大学卒業後「日本の人と、海外の人を結びたい」と、青年海外協力隊でタイに赴任。日本語教師の仕事を始めます。その後、フィリピンの環境NGOに所属し、ゲストハウスの運営を経験。「見知らぬ土地で受け入れてもらった分、今度は自分が海外の人を受け入れたい」と、地方でゲストハウスを開くことを夢見るようになります。
一方川口さんは、大学卒業後IT企業に勤務。企業で働きながら、友人たちと自分たちが抱えていた「働く」という悩みをテーマに、インディペンデントマガジンを制作することを始めます。この活動を通して、自由な働き方で世界を渡り歩く同世代に出会い、自分の働き方を考えるようになった川口さん。会社に不満はなかったと言いますが、出版活動をすることを決め、会社を退職。來住さんのいるフィリピンへと語学留学します。

二人のかねてからの夢を話すなかで、帰国後は出版とゲストハウスそれぞれに取り組むことを決めます。また、一人ひとりの人とゆっくりと対面できる地方のまちで、という土地のイメージも、このころから出来ていきました。
この後に二人は真鶴に移住し、「真鶴出版」の名前で出版事業を開始。その後ゲストハウスの名前を考える中で、先に始めていた「真鶴出版」の名前が候補にあがり、同時に「泊まれる出版社」というフレーズが浮かんだこともあり、宿も出版も名前を同じくして、泊まれる出版社「真鶴出版」として営むことになります。

真鶴に移住する

フィリピンからの帰国を控え、移住先の情報を集めだした二人。友人のカメラマンMOTOKOさんから真鶴を勧められます。そこで、帰国の翌日に真鶴へ。その時は町を1日案内してもらっただけでしたが、その後一か月ほど他の地域を見てまわった後、行政の制度を利用して真鶴に2週間お試し移住します。そして、真鶴で体験した「良いたらいまわし」が、真鶴に移住することを決意するきっかけとなります。
「良い意味でのたらいまわしというか、初めて来た私たちに、町の人があの人も、この人もとたくさんの人を紹介してくれました。新興住宅街育ちの私には、とても新鮮な体験で、縁があるとはこういうことを言うのだと実感しました」と來住さんは言います。
また、真鶴にあった『美の基準』という条例も真鶴に決めた理由の一でした。『美の基準』とは、バブルの終盤に真鶴でリゾートマンションの開発計画が持ち上がった際に、真鶴にある生活風景の価値を見つめなおし、街並みを保つために制定されたガイドラインです。この条例は、クリストファー・アレキサンダーが出版した「パターン・ランゲージ」を参考につくられており、景観にとどまらず、街づくりにおいて重要なコミュニティや心意気まで、定義・提案しています。この条例も、真鶴を選ぶ大きな理由となりました。
色々な地域を見てまわった末、空気がきれいなこと、食べ物がおいしいこと、人が優しいことを基準に、真鶴で経験した良い意味でのたらいまわしの思い出から、二人は真鶴に移住することを決めます。「自分たちで真鶴を選んだのではなく、真鶴に選ばれたと思っています」と、この時のことを大事そうに二人は話します。
こうして、二人は2015年に真鶴に移住。「真鶴出版」をスタートさせます。

取材をおこなった真鶴出版2号店。tomito architectureとリノベした家屋は、どこか懐かしくあたたかな雰囲気。

まちに受け皿をつくる

真鶴出版は、真鶴駅から徒歩5分ほどの場所にあります。駅前の坂道を下って、小道を抜けると昨年の6月にクラウドファンディングで資金を募るなどして完成した真鶴出版2号店が見えてきます。
川口さんが真鶴の情報を出版物にのせて発信し、そこに興味を持った人が宿を訪れる。そんな循環が生まれているそうです。
2016年に刊行した『やさしいひもの』が、その象徴。この本は、本についている「ひもの交換券」を持って真鶴に来ると、特定の店舗でひものと交換してもらえます。都内の書店で取り扱われ、これがきっかけで真鶴出版を知り、泊まりに来てくれる人も。制作した本から、巡り巡って訪れるお客様の受け皿にゲストハウスがなっているのです。
そして、書籍だけでは町の魅力を伝えきれないと、宿泊者の人を対象にまち歩きも行っています。川口さんが書籍を通してつくる真鶴の空気感にひかれてやってくる人にとって、町の人に出会えるツアーは、この地でしかできない貴重な体験となり、真鶴の豊かな思い出へとつながっていくのでしょう。

ひものの引換券がついてくる『やさしいひもの』。

強度のある日常

偶然のめぐりあわせで真鶴にやってきた二人。都心で暮らしていたころと変わったことがあると言います。「都会では正解を求めて、短い期間で結果を出そうと過ごしていました。暮らしの中に、得体のしれない不安があったのだと思います。真鶴に来たら東京でも仕事をするかと思っていましたが、真鶴の仕事だけで生活ができるようになりました。今は、自分で仕事をつくっている感覚があるし、困ったときにはそばに仲間がいるから大丈夫、そんな風に思えるようになりました。得体のしれない不安から、手触りのある不安に変わったのです。仕事もネットワークも生活圏もコンパクトになりましたが、広がりを持てた気がします」と、川口さんは言います。
來住さんには、以前、真鶴に来てよかったと心から思う出来事がありました。仕事でトラブルがあったときのこと、不安な気持ちでゲストハウスに戻ると、お掃除をお願いしているお母さんとその子どもたち、そしてゲストハウスのリノベーションを担当してくれた大工さんが、たまたまゲストハウスに来ていて、「おかえり!」と來住さんを迎えてくれたそう。「何かあったら、この人達が助けてくれるから大丈夫」と、ほっとして涙が出そうになったことがあったそう。

都会にいると、1つ行動するのに、間に色々なものが仲介する時代となりました。しかし、真鶴では、つながりたい人にすぐつながれる。そして、その結束は柔軟でありながら強固。そんな「強度のある日常」があるのかもしれません。
真鶴には温泉も、目立った観光地もありません。しかし、地場で採れたものを食べて暮らし、この場所をあえて選び暮らしている人たちの、豊かさと強さがあります。人も街も、弱さが強さをつくる、そんなことを教えてくれるインタビューでした。みなさんはどのように思いますか。ご意見お寄せください。

右:川口 瞬(かわぐち しゅん)/左:來住 友美(きし ともみ)
出版物を発行しながら宿泊施設も運営する“泊まれる出版社”「真鶴出版」を経営。ゲストハウスを運営しながら、昔ながらの暮らしの残る真鶴を、都会や海外に住む人とつなげる活動をしている。
真鶴出版|http://manapub.com/