コモンスペースについて

京都をはじめ古い町家にある「バッタン床几」。外壁に取り付けられた床几を倒すとベンチのようになる。

今回はコモンスペースとパブリックスペースとの違いを考えてみようと思います。

かつて共同体の住居エリアの裏側に「里山」というのがありましたが、それはまさにコモンスペースです。そこは村の人たちが自由に使って良い場所で、薪をとったり、キノコを採ったりと、共同体のみんなで使ってよい場所でした。この場所に全く見知らぬ人が入ることはありません。物理的に入れないということでなく、暗黙のルールとして、柵や塀がなくても、そこには見えない境界線があったからです。

また他の例では、京都をはじめ古い町家に「バッタン床几しょうぎ(京都ではバッタリ床几)」という、家の前に置かれた折りたたみの縁台のようなものを時々見かけます。これも一見誰もが座っていい様に思いますが、家主を知っている人が使うものだと思います。特にこれは完全に個人の家に設置されているものですから、個人のものを外側に提供していると考えた方が自然です。こうした個人のものや空間の集合体がコモンであり、その共同体に属していることで、そこを使うことができるのです。
それは最近のシェアという感覚にも似ています。だれでも使っていいのでなく、知っている仲間とシェアすることがポイントです。そのことでシェアしているものを大切に扱うという意識も生まれますし、他の人が使いやすい様にという気遣いも自然と生まれるのです。「もの」を通して仲間との連帯感もできます。といっても知らない人は絶対にダメということでなく、仲間の友達も使えるぐらいのゆるい広がりかもしれません。そのあたりの広がりが、気持ちの良い、また安心して過ごせる空間をつくりだしていくのでしょう。

一方パブリックスペースについても考えてみましょう。これは完全にオープンな空間で、だれが来てもよい空間といえるでしょう。こうした公共空間や公園などが街にあるのは快適です。多くの人が自由に気兼ねなく使えるものとして、パブリックスペースは大事なのです。その時にこのスペースを行政が設えたもの、または行政が管理するものとして捉えるのでなく、あくまでもコモンスペースの考え方のように、個人のものや、個人の空間の延長として、捉えることができればよいと思います。個人のものをどこまで解放していくのか、その開放性の大きさを考えるということなのでしょう。ここにもパブリックスペースを、あらためて考えるヒントがありそうです。

もう一点、視線とコモンスペースの関係を考えてみるのも大切です。コモンスペースは共同体で管理されるものですから、外からは見えているのです。見えているというより良い意味で監視されているのです。この開いているけれど視線がある状態というのも、興味深い点です。最近はパブリックスペースの使い方がよく話題になりますが、コモンスペースの視点でパブリックスペースの捉え方を広げていくことで、里山や京町家のような日本的な家と町との関係性を保った風景を、作れるかもしれません。みなさんのご意見をお寄せください。

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